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悲しい私、悲しい……
そのとき
「おいしくなるさ!」
と声がして
振り向けば……
カエル……
その声は……
カエル……
カエルに言われちゃ
あきらめよう
カエルに言われちゃ
笑っちゃおう
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そのとき
「うまくゆくさ!」
と声がして
振り向けば……
カエル……
その声は……
カエル……
カエルに言われちゃ
どうしょうもない
カエルにまかせて
笑っちゃおう
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作曲:矢野顕子・作詞:糸井重里「ふりむけばカエル」より引用
- 解 説
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それまで、細々と昆虫の写真を撮っていた私は、北海道の宮島沼で見たマガンの群れに感動してから、野鳥撮影に魅せられていった。いろいろな野鳥撮影に関する書物を読み漁った。昆虫と野鳥では必要な機材も全く異なる。レンズや三脚も徐々に新調していった。しばらくして、私は何となく美しい野鳥写真というものがどういうものか分かったような気になった。それは例えば、美しい小鳥が木の枝に止まっていて、鳥の位置はだいたい画面の上から3分の1、右から3分の1で、鳥は画面の広い方、すなわち向かって左側を向いてさえずっており、鳥の目にははっきりと光が差し込んでいて、そしてバックグラウンドは淡い緑でうっすらとボケている、というような写真である。そして私もいつかは是非とも珍鳥でそのような美しい写真を撮り、「日本の鳥」という投稿写真集に掲載されることを夢見ていた。
ところがある年、宮崎学という動物写真家が「日本の鳥」の審査員となり、日本の野鳥写真はこれでいいのだろうか、いつまでも「花鳥風月」的な写真でいいのだろうか、自分はもっと自然のうつろひや生態が一目で分かるような野鳥写真が見たい、というような主張をした。果たしてその翌年、「日本の鳥」からは「花鳥風月」的な写真は少なくなり、大きな猛禽類がハトを文字通り鷲掴みにして食べているといったような生態写真が多くなった。その後、宮崎学という写真家について興味が湧き、いろいろと調べているうち、自ら「自然の報道写真家」と名乗るその姿勢に次第に惹かれるようになっていった。
あまり時間のない私にとって、珍鳥情報を元にそこでじっと待つという撮り方よりも、むしろ近所を走り回って、構図もあまり考えずに、とにかく出会った鳥たちを撮るというスタイルは都合が良かった。アオサギなんかはとっくに見飽きていたが、ある日いつになく妙な動きを見せるアオサギが目の前に現れ、とても気になった。すると、大きなカエルをまるで私たちに自慢でもするかのように見せつけ、そして一気に喉の奥へと飲み込んだ。私は夢中でシャッターを押した。
ちょうどこの頃、購読していたカメラ雑誌の投稿写真コンテストの審査員が宮崎さんになった。私は宮崎さんなら何らかの反応を示してくれるだろうと期待し、その中の一枚を投稿したところ、私の思惑通りに佳作に入選した。写真自体への評価は平凡でつまらないというような厳しいものだったが、なぜ取り上げられたかというと、この食べられているカエルがアメリカウシガエルという外来種であり、それをアオサギが食べているという事実を記録していくことも大事だから、ということであった。
写真よりも撮影姿勢が評価されたと良いほうに解釈し、それから私はどこか挙動不振な鳥を見つけるとすぐレンズを向けるようになった。ネズミを食べるアオサギ、電柱の上で魚の血をたらすミサゴ、カエルを食べるアオアシシギ。結果として捕食シーンを撮る機会が多くなった。
極めつけは、ザリガニを食べるカルガモの撮影だった。私はカルガモは草とか藻などの植物しか食べないとばかり思ってた。カルガモは飽きるほど見ているが、大きなザリガニを苦労して飲み込もうとしているカルガモなんて見るのは初めてで、夢中でシャッターを切った。その結果、その中の一枚に、まさにカルガモがザリガニを噛み砕き、ザリガニのハサミが取れて宙に飛んでいる瞬間が写っていた。これは面白いと思い、同じ雑誌に投稿した。結果はなんと準優秀賞だった。宮崎さんには、誰も見向きもしないような普通の鳥にだってシャッターチャンスはある、これは野鳥写真に限らずスナップのお手本だと、最大級の賛辞をいただいた。
話がずれてしまったというか、最初からずれているのかもしれない。私は昔から矢野顕子もよく聞く。学生時代には出前コンサートにも出向いた。さて、「ふりむけばカエル」なんだけれども、これは糸井重里の作詞にも関わらず、まるでアッコちゃん自身が作詞したかのごとく全く違和感を感じさせない作品だ。この曲が収録されている「GRANOLA」は非常に洗練された名アルバムだと思う。ちょうどその頃のライブアルバム、「good evening tokyo」での「ふりむけばカエル」も非常に良い演奏だ。このライブアルバムは、坂本龍一、高橋ユキヒロ、小原礼、吉川忠英といった気心の知れたメンバーに、当時全盛の窪田晴男のギターが加わり、全体として素晴らしい作品に仕上がっており、オススメだと思う。
私が「ふりむけばカエル」を聞くときにいつも疑問に思っていたのが、なぜカエルなのだろうということだった。特に、どうしてカエルに言われたら、しょうがないと思えるし、あきらめられるし、笑っちゃえるのだろう、ということだった。そのことを深く考えるようになったのは、実は件のアオサギに食べられるアメリカウシガエルと出会ってからだった。ウシガエルは元々食用だし、野生化しても鳥に食べられる運命なのだ。私は、アオサギに銜(くわ)えられたウシガエルと目が合ったとき、ウシガエルはまるで自分の運命を受け入れ、「どうにかなるさ」とつぶやいたような気がしたのである。そうして、「おいしくなるさ」とは、本当はくずれた目玉焼きに対しての言葉なんだけれども、ついにウシガエルが飲み込まれようとしているとき、私にはウシガエル自身がおいしくなってやるんだという意味に受け取れたのである。ウシガエルはやがてアオサギに吸収され、一部は糞尿として排泄され、そしてアオサギ自身もいつかは死んで土に返る。このようにして自然は彼の言うが如く「うまくいってる」のであろう。
喰われてしまうという自分の運命を受け入れているカエル、そんな運命のカエルになぐさめられては、自分のちっちゃな悩みなんて恥かしいもの以外のなにものでもないんじゃなかろうか。そう、もう「笑っちゃう」しかないんである。
今日も夕方近くなると、私のフィールドの草むらからは「モー」という鳴き声が聞こえる。ずっと、近くの牧場の牛の声だと思っていたのだが、あれがウシガエルの鳴き声なんだそうである。


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