プロローグ
あらかじめことわっておくが、このエントリーはほんとうに長い(約二万字)ので、私の書くものに興味があるという奇特な方々の中で、よほど暇を持て余している人以外は読む必要はない。結果的に、おそらく完読するのは私を含めて全国で4名ほどになると予想している。
当ブログは主にスミルノフ教授の筆によるエントリーを掲載しているが、教授は2011年の7月から突然休養して、通称「コトラ」と呼ばれるものが代筆連載を開始した。覚えているだろうか。もしご存知でなければ、すぐにウィンドウをとじたほうがよい。
コトラは約3ヶ月で計14回の代筆連載をこなした。
ところが、第15回目に奇妙なエントリーが現れた。表題はコトラの第15回目の連載ということになっていたが、筆者はスミルノフ教授だったのだ。多くの読者は教授が復帰したと思った。しかし教授は、これは復帰ではなく、コトラの代筆、すなわち代筆の代筆であり、自分はもう少し休養を続けるというようなことを書いた。
したがって、次のエントリーはコトラの第16回目のエントリーだと、誰もが思ったことだろう(いや、誰もがそう思うはずだ、と私は思った……)。
ところが、コトラの第16回目のエントリーは現れず(こうしてたった今現れているわけだが)、何ごともなかったかのように、スミルノフ教授自身の連載が復活したのである。読者としては、これはいったいどういうことなのだろう?という疑問が湧いて当然である(ところが信じられないことに読者からの問い合わせは一件もなかった)。
さて、これから紹介するのは、以上のような教授とコトラの不可解な行動の謎(誰も謎と思っていないんじゃないだろうか、という不安は抑えきれないが)を解き明かす物語である。
そして、その謎を解き明かす役を、世界のミステリィ史上最も人気のある私立探偵にお願いした。したがって、この先は、その私立探偵による一人称で語られることになる。
では、今この文章を書いている、この「私」は誰なのであろう? そのことについては、物語の最後にまた考えてみよう。あなたが最後までたどり着けることができれば、そして私がそのことを覚えていれば、の話だけれど。
1 テツ
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
テツ(呉哲範)……医師
ワゴンRの女
駐車場係の男
私がはじめて呉哲範(くれてつのり)という男に会ったときのことから話そう。彼は高級レストランの前に停まっているロールスロイスの中にいた。酔いつぶれて半分意識を失っており、彼の左足は外に出たままで、まるで彼のものじゃないかのようにブラブラしていたので、駐車場係は車のドアを完全に閉めることができないでいた。
運転席には若い娘が坐っていた。ロールスロイスが普通の車に見えそうな豪勢な外套を身にまとっていた。だが、じっさいにロールスロイスが普通の車に見えたわけではない。ロールスロイスはあくまでもロールスロイスだった。
いや、正直に言おう。それは実はスズキワゴンRだったのだ。女の外套のせいで、スズキワゴンRがロールスロイスに見えたのだ。だが、じっさいにスズキワゴンRがロールスロイスに見えたわけではない。スズキワゴンRはあくまでもスズキワゴンRだった。
と書き直すと、ほら、女の外套がいったいどんな外套だったのか分からなくなってくるじゃないか。ロールスロイスを凌駕するほど豪勢な外套がロールスロイスを普通の車に見せてしまうのなら、ものすごく粗末な服装がスズキワゴンRをロールスロイスに見せてしまうことだってあるはずだ。
駐車場係はイライラして、「おい、足を引っ込めるか降りるか、どっちかにしてくれないか」といいながら勢い良くドアを開けた。その拍子に酔った男は助手席から滑り落ちてしまった。酔っぱらいには関わりたくなかったが、私はそばへ寄って彼のからだをかかえて抱き起こした。
「ありがとう、すいません」と、彼はていねいにいった。
運転席の女は、「酔っぱらうと日本人らしく慇懃になるのよ」とステンレス・スティールのような声でいった(ステンレス・スティールのような声ってどんな声だ?)。
「うしろの席にのせよう」
「駄目よ」
彼女は冷たい微笑を見せながらエンジンを始動させた。ロールスロイス、じゃなかった、スズキワゴンRは大きな通りに出ると右に曲がって見えなくなった。
私はぐっすりと眠るその青年を抱き抱えていた。やれやれ。
「私の車を出してくれ」といって、私は駐車場係に札をわたした。「こんなに礼儀正しい酔っぱらいは初めてだね」
「いろんな酔っぱらいがいますけど、どうせみんな、ろくでなしですよ。ほら、こいつはほっぺたに二つ穴があいてらあ」
「そうだな」たしかに左の頬に穴があいたような傷痕が二つあって赤く腫れていた。
「どうなさるんで?」
「家へ連れてって酔いをさまさせてから考えるよ」
「お人よしですね。あっしなら、どぶにでもほうりこむところだ」
「この男を知ってるかい?」
「さあね。女はたしかテツって呼んでましたよ」
*
私の家でイルカのようないびきをかいて(イルカがいびきをかくのかどうか知らないが)、ぐっすり寝ていた青年は突然目を覚まし、自分はいったいどこにいるのかと尋ねた。彼は呉哲範と自分の名をなのった。はっきりした言葉だった。
「僕はどうしてここにいるんです?」と、彼はあたりを見回しながら尋ねた。
「駐車場の車の中でのびてたんだ。君は日本人かね?」
「日本に住んでいたことはありますが、生まれたところは違うんです。あのう、タクシーを呼んで帰りたいのですが」
「タクシー? 私が一台持ってるよ」
私は車で彼をアパートまで送っていった。壁には椅子に座った男の肖像画がかけられていたが、小さくて息がつまりそうな部屋には誰が見ても不釣合いだった。
「僕の肖像画なんです。クリーブランドの研究所にいるとき画家の友人に描いてもらったものです」
ソファの前のコーヒー・テーブルの上には、駆血帯が2本と5ccの注射器が何本かあって、それに何かの薬品のバイアルが3本転がっていた。私が帰るとき、彼は少し照れながら何度もお礼をのべた。私がエレベータに完全に乗りこむまで、開いたままのドアのところに立っていた。どんな欠点があるにせよ、礼儀をわきまえた男であることはたしかだった。
私は引き返してドラッグを取り上げようかとも思った。だが私には関係のないことだし、取り上げたところでどうせ無駄だろう。どうしても欲しければ、どんなことをしてでも手に入れる。ドラッグ・アディクションとはそういうものだ。私は唇をかみながら車を家へ走らせた。私はめったに心を動かされないタチだが、彼はどこかに私の心をとらえるものを持っていた。
2 テツ、ブラウン、ベントン
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
テツ(呉哲範)……医師
ブラウン……DEA捜査官
ベントン……DEA捜査官
私がテツこと呉哲範にふたたび会ったのは、感謝祭のすぐあとだった。
私のオフィスから三ブロックほど離れたところだった。アンテナが立っている黒いセダンが停まっていて、黒いスーツの二人組が車の中から何かを見つめていた。その「何か」がテツだった。いや、彼の残骸といってもよかった。見られる姿とはいえなかった。
彼は壁にもたれかかっていた。もたれかからなければ立っていられないのだった。シャツは汚れ、首のところがはだけていた。何日も髭を剃ってないようだった。鼻が腫れて、目は雪に穴をあけたようだった(雪に穴をあけたような目っていうのはいい表現だね、われながら)。
二人組が彼を捕まえようとしているのは明らかだったので、私はすぐ彼のそばへ行った。彼はうっすらと目をあけた。やっと私のことが認識できたようだった。
「ああ、先日はありがとうございました。すいませんが、椅子をくれませんか? 立っていられないんですよ」
「テツ、しっかり歩くんだ」と、私は彼の腕をしっかりとつかんで、わざと声を荒くしていった。そして、彼にむかって片目をつぶってみせた。「歩けるか? ラリってるのか?」
彼はまだぼんやりした目付きで私を見ていた。そして、顔の片側で笑った。
「いや、何でもないよ。ちょっとめまいがしてるだけさ」
「よし。だが今はしっかり歩け。ブタ箱にぶちこまれるぞ」
彼は力をふるいおこして歩き始めた。
私が彼をタクシーに乗せようとしたとき、二人組が車を降りてこちらに近づいてきた。
「ちょっと待ちたまえ。君はいったい何者だね?」
私に向かって一人がそう言いながらバッジをちらっと見せた。灰色がかった金髪の男で、執念深そうな人間に見えた。その後ろのもう一人は背が高く、きちんとした服装の苦みばしった男で、教養はあるが嫌な野郎という印象だった。二人とも、油断がなく冷静で辛抱強そうな目つきをしていた。プロの目つきだった。
「俺はDEA(麻薬取締局)のブラウン、こっちはベントン捜査官だ。そのフラフラした紳士はほんとに君の友だちなのかね?」
「友だちどころか親友さ。病人なんだ」
「ラリってんじゃないだろうな」と、ブラウン捜査官はいった。私は彼にブルーIDカードを渡した。彼はその鮮青色のプラティナ・カードをちらっとながめてから、私に返した。「そうかそうか、私立探偵さんがお客様を拾ったってわけか」彼の声が急に荒々しくなった。「簡単にはごまかれんぞ。ほんとうは彼のことなんか知らないんだろう、マーロウ!」
「知ってるよ。彼の名前は呉哲範。医者をやってるんだ」
「呉哲範だと?」ブラウンは片方の眉を上げながらテツの頭の先からつま先までを舐めるように観察した。「ふーん、そいつは結構だ。だがこんな状態で医者をやってるとしたらそりゃ極めて危険な行為だ。やはり連れてかなきゃならん」
「やれやれ、あんた、そんなに営業成績が悪いのかね」と私はため息をついた。
ブラウンはテツに向かっていった。「おい、君、名前は?」
「呉哲範」と、テツは答えた。
「テリー・レノックスじゃないのかね?」とブラウンは訊いた。
その名前を聞いて、私は少しびっくりした。同姓同名の旧友がいたのである。もっとも、彼と最後に別れたのはもう60年以上も前のことだ。それ以来一度も会っていない。
テツがそんな名前は知らないというふうに首を振ると、ブラウンは「そのお友だちの名前はなんというのだね?」と訊いた。
「フィリップ・マーロウ」と、テツははっきりとした口調でゆっくりといった。「フィリップ・マーロウ。職業は私立探偵。すいません、めまいがひどいんです。病院に行きたいのですが」
ブラウンはベントンと互いに顔をみ合わせてから、私の方をふりむいて手をひろげて見せた。彼は一、二秒、私を見つめていた。「まあいい。今回は見逃そう」捜査官は車に戻り、走り去った。
*
テツは私と夕食を済ませたあと、私の家でヒゲを剃り、風呂に入って、やっと人間らしくなった。
「私の名前を覚えていてラッキーだったな」と、私はいった。
「頭にしみこんでいたんだ。会いたかった」
「じゃあなんで電話してこない? いつもここにいるんだぜ。オフィスもある」
「あんたに迷惑をかけるわけにはいかない」
「どうせ誰かに迷惑をかけるんだ。あまり友だちがいないんだろう」
「友だちはいるさ」と、彼はそこで言葉をつまらせた。「友だちのようなもの、がね」
彼は私を見上げて、話題を変えた。
「赤城高原というところに僕と同じような奴らが集まっている病院がある。そこで集団生活をしながら治療を受けようと思ってる」
私は何もいわなかった。ただ、うなずいて、グラスをいじくっていた。
「もっと早くそうするべきだったと思ってるんだろう」と、テツは静かにいった。
「私の知ったことじゃない。だが、もっと裏に何かありそうに思えるね」
「その病院にかい?」
「なにいってる、君にさ」
彼は疲れた微笑をうかべた。
「医者といっても、その様子じゃろくに働いてないんだろ。金が必要ならいつでも私にいってくれ。べつに私は涙もろい人情家ってわけじゃない。ただなんとなく君が気になるんだよ」
「ほんとかい」彼は手に持ったグラスを見つめていた。「まだ二度しか会っていないんだぜ。どうしてこんなに親切にしてくれるんだい?」
「次に会ったら、私ではどうしようもない破目に陥っているような気がするんだ。なぜ君のことが気になるのかは分からないが、気になって仕方がないんだ」
「これだろう。これで人相が悪く見えるんだ」彼は左頬の傷痕を二本の指でさわった。

「そんなことじゃない。そんなものは少しも気にしていないよ。私は私立探偵だ。君は問題を持っている。勘でわかるんだ」
彼はまた指先をそっと傷痕に触れた。顔にかすかな微笑がうかんだ。私が尋ねたら、彼は生まれてからのことを話してくれたかもしれなかった。だが、私はどうして顔に傷をうけたかということさえ訊かなかった。
3 テツ、ミソスープ
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
テツ(呉哲範)……医師
それからしばらくテツは私の前に姿を見せなかったが、ある雨の日の夕方5時頃、突然私のオフィスに現れた。まるで人間が変わったように見えた。ドラッグをやってる様子も全く無かったし、落ち着いていた。
「ジャパニーズレストランに行かないか?」と、彼は1時間も前から来ているようにいった。「暇があれば、だけど」
日本人はアメリカ人のように握手をしない。彼は日本生まれではなかったけれども、日本人の習性を身につけていた。だから私たちは手を握らなかった。
私たちは<シナノ>のカウンターに座って、スシとテンプラのコースを頼んだ。この町の住人のあいだではより高級な<シュウヘイ>のほうが人気が高かったが、テツは<シナノ>のほうが本物の日本料理に近いと評価していた。
私は最初に出てきたミソスープをスプーンですくって飲んでいた。
「アメリカ人はミソスープの飲み方を知らない」と、彼はいった。「ほら、あのご婦人を見てごらんよ」
テーブル席に一組の日本人カップルが座っており、女性の方がお椀を左手に持って口につけ、右手に持った箸でいそがしそうにミソスープをかき込んでいた。
「あれが本来の日本式の飲み方だ。それに彼らのテーブルを見てごらんよ。料理が全部きてしまっているだろ。日本人は最初にミソスープを飲みほしたりはしない。ライスもメインディッシュも、全部いっしょにミソスープを飲みながら食べるんだ」
「私は日本料理に関心を持ったことはない。だがこの尾を引く旨さはどうしたことだろう」
「命のダシのおかげさ」
結局私たちはミソスープを三杯ずつも飲んだ。あとで喉がかわいて酷い目に遭うなんてこのときは思いもしなかった。
彼は私をオフィスまで送ってくれた。
それから、五時ごろに私を訪ねてくるのが彼の習慣になった。いつもいつも<シナノ>に行ったわけではなかったが、<シナノ>へは一ばん多く足をはこんだ。
4 テツ、拳銃
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
テツ(呉哲範)……医師
だが、それからほどなくテツはまた姿を見せなくなっていた。何ヶ月か経ったある日の朝五時、いつまでも鳴っているドアのベルがやっと寝ついたばかりの私をベッドから引きずり出した。私は居間を横切って、ドアをあけた。
テツが一週間も眠っていないような様子で立っていた。
手には拳銃が握られていた。
拳銃は私に向けられていたわけではなく、ただ握られていただけだった。
「空港まで車でつれてってくれないか。そこから十時の飛行機にのる」と、彼はいった。「もちろんパスポートもビザもある。わけあって空港までの交通手段が問題なんだ。頼む」
私は戸口に立ったまま、「その拳銃はいったいどうした?」と訊いた。
彼はうつろな目つきで拳銃を見おろした。そして、拳銃をポケットに入れた。
「ただの護身用だよ」と、彼はいった。
「入っていいよ」私がドアを開けると、彼は弱々しい足取りで入ってきた。
「椅子をくれないか?」
「そこに座れよ」
彼はソファに深くからだをうずめた。
居間はまだ真っ暗だった。
「なるほど、こんな天気の良い朝に眠っているのはもったいないってわけか。十時の飛行機だって? まだ時間はたっぷりある。まずコーヒーを入れるぜ」
「探偵さん、冗談じゃないんだ。面倒なことになってるんだ」彼が私を探偵と呼んだのははじめてだった。
「まあ落ち着けよ。ハギンズ君とヤング君はさあ……」私は一人で延々としゃべり続けながら、かなり本格的な手順でゆっくりとコーヒーをいれた。その私の講釈と手順はかなり複雑で細かいので省略する。
私は彼のポケットから拳銃を取りあげた。みごとなモーゼルだった。銃口を嗅ぎ、弾倉を調べたが、一発も撃たれてはいなかった。
「誰も撃ってないよ」と彼はいった。「それより相談があるんだけど」
「ちょっと待て。いいか」私は熱いのを我慢してコーヒーを飲み干した。「ほんとうに空港に連れて行ってもらいたいなら、話されては困ることが二つある。いいね」
彼はかすかにうなずいた。
「ひとつは、もし犯罪を犯しているのなら、話してくれては困る。ふたつめ、何か重大な犯罪について知っているという場合も、それを話してくれては困る。連れて行ってもらいたいなら、話さないでくれ。いいね」
彼は私の目を見つめた。
「面倒なことになったといったろう」
「それは聞いたよ、でも知りたくないんだ。ブルーIDカードを取り上げられたくないからね」
*
私は彼を車に乗せて空港に向かった。着いたときにはすでにDC-3のプロペラが回り始めていた。
「世話になった。たぶん南米のどこかに潜伏することになると思う」彼は車を降りるとスーツケースを持って飛行機に向かった。
「君の家のコーヒーの罐に5千ドル紙幣を入れてきた。怒らないでくれ」
「そんなことはしないでもらいたかった」
「いま持ってる金の半分も使えそうにないんだ」
「元気でな」
彼を乗せた飛行機のうしろに砂埃が立った。旅客機は空中に舞い上がった。
5 ハワード・スペンサー
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
スミルノフ教授……ブログ主
ロジャー・ウェイド……作家
ハワード・スペンサー……編集者
数日後、私はドルフィンホテルのバーの椅子に坐っていた。
「大変遅くなりました。ハワード・スペンサーです。マーロウさんですね」
小太りの中年男で、服装などには無頓着な人間のようだった。ふちなし眼鏡をかけ、古ぼけたカバンを手で叩いていた。
「長編の原稿が三つ入ってるんですよ。ウェブサイト用ですけどね」
ウェイターが飲み物を持ってきた。スペンサーはすぐに口をつけた。
「私どもの会社の大切な作家が近くに住んでいます。あなたも読んだことがあるかもしれない。ほら、ロジャー・ウェイドです」
「ああ、ウェイドね……」と、私は少し顔を曇らせた。
「わかってますよ」彼は苦笑をうかべた。「嫌いなんでしょう。まあ、たしかにさっぱり売れないし……」
「いや、別に嫌いだというわけじゃ……。偶然一度だけブログを読んだことがあるんですが、正直にいってくだらないと思いました。こんなこといってはいけませんか?」
「いや、あなたに賛成する人間は大勢いますよ。だが私は問題があるのはツイッターやフェイスブックだと思っています。あんなまやかしで人々は連帯したような気になっている。使い捨ての短文、短文すら面倒ならばいいね!ボタン。一方、ブログはといえば、はったり、コピペ、ライフハックばかり! もっと個人的なレベルで、ある程度の長文を大事にする人がなかなか目立ちません」
私はライムエイドを飲み終わって、腕時計をつまらなさそうに見つめていた。
「で、用事というのは?」と、私はスペンサーに視線を戻して尋ねた。「ウェイドに関係あることなんですか?」
彼はうなずいた。私をじっと見つめていた。「あなたのことを少し話してくれませんか、マーロウさん」
「え? どんなことです? そんなの常識でしょう。だってもうだいぶ長いあいだ私立探偵をやっていますよ。詳しく知りたければアマゾンでレイモンド・チャンドラーって入れて検索してください。清水俊二訳のハヤカワ文庫が定番です。映画の字幕みたいな疾走感が評判です。村上春樹も最近になっていくつか訳してます。こちらはちょっとぎごちないかもしれないが、そのぶん清水が省略した部分までしっかりと訳している」
「それはよくわかっています。しかし、私が知りたいのはそういうことじゃありません」
私はジン・アンド・オレンジを飲みほした。うまいとはいえなかった。私は苦笑を浮かべてみせた。「ひとつ言わなかったことがあります。ポケットにマディスンの肖像を持ってるんですよ」
「マディスンの肖像? なんのことですか?」
「1934年に発行された5千ドル紙幣です。私のお守りです」
「へえ、今じゃ100ドル紙幣だって店員が偽札じゃないかって疑うほどめったに見ないですよ」
「昔は10万ドル紙幣まであったそうですよ」
「それは驚きですな」と、彼は声を低めていった。「危険じゃないんですか?」
「ある限界を超えれば、どんな危険も変わりはない、といったのは誰でしたっけ?」
「バジェットでしょう。高い所で働く人についていったんです。いや、あなたはなかなかしっかりしていらっしゃる。お願いすることとしましょう」
彼はウェイターを呼んで飲物をもう二杯頼んだ。
「こういう話なんです」と、彼は注意ぶかく話を始めた。
「われわれはロジャー・ウェイドのことで大へん困っているんです。まだ書くことがたくさん残っているし、実際に書いてはいるんです。でも、その発表の場を奪われてしまったんです」
スペンサーは暗い表情をうかべて、私を見た。
6 ハワード・スペンサー(2)
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
スミルノフ教授……ブログ主
ロジャー・ウェイド……作家
ハワード・スペンサー……編集者
「ロジャー・ウェイドはかの有名な作家であるスミルノフ教授に才能を見出されました。スミルノフ教授をご存知で?」
「まあ名前を聞いたことがある程度です」
「じゃあ彼のウェブサイトをごらんになったことはありますか?」
「ええ。たしかロシアから亡命してきたんですよね」
「そうです。ウェブサイトのプロフィールにはたしかにそう書いてある。ロシアからアメリカに亡命し、次は日本人に整形して日本に逃れた。今でもFBSにいるKGBの残党やCIAなどがまだ彼を狙ってるらしいという」
スペンサーは一度話を中断してグラスに口をつけた。
「先日、スミルノフ教授が体調を崩してブログの連載を書けなくなったことがあったんです。そのときウェイドが代筆をつとめました。第14回目までの代筆連載はとても順調でした。期間や回数については特に細かく取り決めていなかったのですが、教授が回復するまでの数ヶ月間、好きなように書いてくれればいい、教授が復帰したら応分の報酬をいただける、という話でした」スペンサーは軽く鼻息をもらしてから、さらに続けた。
「ところが連載の第15回目に、何の予告もなしに突然スミルノフ教授が復帰したのです。しかもその内容は、ロジャー・ウェイドが書いたものは出鱈目で大嘘だという告発じみたものでした」
「つまり、その第15回目で、スミルノフ教授はロジャー・ウェイドの連載打ち切りを宣言したということですか」
「そうであったならば話は単純で、一方的な契約解除と報酬未払いということでこちらも遠慮無く訴訟の準備に入ることができます。でも違うんですよ。スミルノフ教授は自らが書いたその第15回目で、これは代筆の代筆なんだといったんです。つまり、完全復帰ではなくてウェイドの代筆をしているのだというのです。ですから、これは弟子に対する叱咤と激励のための一時的な復帰であって、次の第16回目からはまたロジャー・ウェイドが書くものだとすっかり思い込んでいました。しかし不思議なことに、その次からは何ごとも無かったかのようにスミルノフ教授の連載が普通に再開されました。まるでロジャー・ウェイドの代筆連載なんか無かったかのようにね」
「私にはそれほど不思議とは思えませんね、スペンサーさん。教授の単なる気まぐれなんじゃないですか?」
「たしかにおっしゃるとおりです。しかし、こちらとしても訴訟みたいな騒ぎになる前に鉾先を鎮めることができれば、それに越したことはない。そこで私もスミルノフ教授と接触しようと努力しました。ところがどういうわけか突然連絡が取れなくなってしまったのです。それにもうひとつ私が気になるのは、この件についてロジャー・ウェイド自身も、あまり多くを語りたがらないということです。その代わり、いつもイライラしているんですよ。腹を立てて怒鳴ったり、いたるところに小便をかけまくったりすることだってあるんです。家族がいうには、何か大変な心配事があるに違いないというんです。例えば教授に弱みを握られているとか、脅迫されているとか」
「ねえスペンサーさん、それでいったい私にどうしろというんです? これはどう考えても私の仕事ではないですね。精神科医かなんかを探したほうがいい。それにいきなりスミルノフ教授を訪ねるのも難しいですね。相応の理由がないと」
「あの、これはここだけの話なんですが……」とスペンサーはしかめた顔を私の顔に近づけて囁いた。「私にはスミルノフという教授が実在するとはとても思えないんですよ。いまだにKGBの残党に追われてるなんてそんな話信じられますか? つまり彼は、小説の登場人物みたいに架空の存在なんじゃないですかね。ウェイドが代筆したというブログも、いわば小説の中に出てくるブログであり、メタフクションなんですよ。朝のガスパールみたいにね」
「どっちにしろ、その『スミルノフ教授のブログを書いた人物』は実在するんですよね? ウェイドはその人物の代役としてブログを書いたと考えればいいでしょう」
「いえ、ちょっと違うんですよ、マーロウさん。ウェイドはあくまでも、その小説の中のブログ連載を代筆したんです」
「ということはウェイドも小説の登場人物なんですか?」
「その質問には非常に答えにくいなあ。だって、よく考えたら、歴史的にも世界的にもあなたの方がよっぽど小説の登場人物じゃないですか。もう、どのメタレベルか、ということだけが問題だ」
スペンサーはグラスを少し持ち上げながら意味ありげな目配せをした。
さて、そうすると、今これを書いているのは誰なのだろう、という疑問が湧いた。
疑問が湧いただって?
誰に?
私に?
私って誰?
フィリップ・マーロウ?
ロジャー・ウェイド?
スミルノフ教授?
スミルノフ教授の中の人?
チャンドラーでないことだけがたしかだ。
それはきっと考えてはいけない問題なのだろう、という気がした。
自分を創造したものの名を、むやみに口に出してはいけないのだ。
7 カウボーイ
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
ロジャー・ウェイド……作家
カウボーイ……カウボーイ
このあたりで話を端折って手っ取り早く先を急ぐこととする。私はロジャー・ウェイドの捜索及びスミルノフ教授との代理交渉を引き受けた。ロジャー・ウェイドはスペンサーに会わないどころか、その行方さえ不明だということが判明したのだ。私がこの仕事を引き受けたのは、熱心で情の深いスペンサーに共感したからではない。実はあの後、ロジャー・ウェイドの妻だというアイリーンに会ったのだが、これが飛び切りの美人だったのだ。結局、フィリップ・マーロウも美人の頼みは断れない。そして美人はハードボイルドに欠かせない。そりゃあサム・スペードと関わる女に比べれば、私の物語に出てくる女たちは多少所帯じみて生活感を漂わせているかもしれない。でもみんな美人であることにかわりはないのだ。特に美人だと描写する必要もないほどだ。そもそもハードボイルド読者の頭の中には金髪の美人しか現れないのだから。
しかし残念なことに、今回は美女は登場しない。紳士と淑女のあやしい雰囲気のおしゃれな会話も無しだ。なぜなら、ここはスミルノフ教授のウェッブサイトだからだ。
さて、いろいろと省略して申し訳ないが、まあ紆余曲折あって、私はウェイドが捕らえられている小屋を探り当てた。ウェイドは所在無げに床に伏せており、傍らにはカウボーイの格好をした大男が立っていた。ウェイドは口輪をはめられていた。それはたしかに口輪であり、猿ぐつわではなかった。
私はドアのところへ行って、いきなりひきあけ、カウボーイに近づいて彼の片腕をつかんだ。カウボーイが振り向いて腕をふりほどくと、金属で光る右手がとんだ。ナックルダスターをそなえた拳が私の顎を打ったのだ。私はドアの近くまで吹っ飛ばされた。カウボーイはなおも私に飛びかかろうとする。
私は拳銃を引きぬいて彼につきつけた。だが何の反応もなかった。彼は自分が拳銃を持っていることを忘れているようだった。彼は自分の拳銃になんか興味はなく、ただナックルダスターさえあればよかったのだ。すでに私に飛びかかろうとしている。
私は向こう側の窓ガラスを撃った。
BANG ! CRASH !
小さな小屋だったので、予想以上の大きな音がした。大男はびっくりして立ち止まった。
「ナックルを捨てろ」と、私は彼の目を見ながらいった。彼は驚いたように手をみると、ナックルダスターを外して部屋の片隅に放り投げた。
「ベルトもだ。銃には手を触れないで外せ」
「弾は入ってない」と彼はいった。「ほんものじゃない。にせものなんだ」
「いいから早くベルトを外せ」
大男がすべての武器をおいて小屋を出ていってから、私はウェイドの口輪を外して抱き上げた。
「君がスペンサーのいっていた探偵なのか? どうやってここが分かったんだ?」
「その筋の人間にいろいろ訊いてまわっただけさ」
8 ロジャー・ウェイド
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
ロジャー・ウェイド……作家
「殴られたけどだいじょうぶかい?」とウェイドは訊いた。
「骨が砕けてるかもしれない」と私は下顎をさすりながらいった。
「僕の親戚に歯医者がいるからみてもらおう」
「顎の骨は歯医者でいいのかい?」
「親しい獣医もいるけど」彼はにやっと笑った。「名前は?」
「フィリップ・マーロウ」
「まじで?」彼の声が急に鋭くなった。「あのテリー・レノックス事件で有名な……」
「まあそうだ」
「テリー・レノックスはかわいそうだったね」
私は返事をしなかった。
「話したくないんだね」
「聞きたいのか?」
「僕は作家だぜ。おもしろい話には興味がある」
「今は職業意識を捨てたまえ。からだが弱っているはずだ」
*
それから何日か後に私はロジャー・ウェイドの家を訪ねた。
「よく来てくれたね、マーロウくん。こないだはたいへん世話になった」自宅ではウェイドの態度はうって変わって高圧的だった。
「仕事はどうですか?」と私が訊くと、彼の顔が曇った。
「まあ書いてるよ。でも発表の場がない。発表したとしてもいったい何人が読んでくれるかなんて分かりゃしないしね。今は苦痛を伴いながら書いてる。本当はなんの苦労もなくすらすら書けるときが一番いいものが書けるんだ」
「作家によるんじゃないですか。フローベルは苦労して書いてるけど作品はいい」
「フローベル?」
「知らないんですか?」
「知らない」と、彼は吐き捨てるようにいった。彼はだんだんいらついてきているようだった。
「今も長編を書いてる途中なんだ。最初にこれを思いついたときは、すごく良いアイデアのように思えた。全体像もどんどん湧いてきて、自分ではとてもおもしろいと感じた。ところがいざ書き始めてみると、つらくてどうしようもない。特に今が今までで一番つらいな。今、たぶん全体の三分の二ぐらいまではきてると思うのだけど、ここまでついてきている読者が果たして存在するのか? という疑問に苛まれる。書き始めの頃にこれはおもしろいんじゃないかと考えたこと自体が、今では自分でも全く信じられないんだ。もう今の僕を動かしているものは惰性以外の何ものでもない。早く終わらせてしまうことばかり考えている」
私は椅子にもたれて、タバコに火をつけた。
「あなたはスミルノフ教授と直接会ってましたか?」
「スミルノフ教授は作家としての基本動作を一番最初に教えてくれた人だ」
「尊敬している?」
「さあ……それは答えられないな。君はレイモンド・チャンドラーを尊敬しているかい?」
私はその質問を無視した。
「最後にスミルノフ教授と会ったのはいつですか?」
「第15回目の連載発表の後だ。第15回目には僕の連載が続くようなことが書いてあるだろう。そのあと教授は僕のところに来て、同じことを言った。もう少し続けろって」
「それだけ? ひょっとして説教されたんじゃないですか?」
「もちろんだ。くどくどとね。それも僕の襟首をつかみながら」
「そのとき、あなたは教授に何かしたんじゃないのですか?」
ウェイドは視線を床に落として長い溜息をついた。そして一言だけつぶやくようにいった。
「よく覚えていないんだ」
部屋を出るとき、ウェイドは私を呼び止めていった。
「君は、たしか『長いお別れ』って小説の中で有名なセリフを言った探偵だよな。そう、たしか『男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない』……」
「それは、『長いお別れ』じゃない。『プレイバック』です」
「あ、そうなのか」
「それから、似たようなことは言ったかもしれないが、正確ではありません。私は『男は』なんて言わなかったはずだ。そんな格言みたいなことをいえるほどの人間じゃないのでね。ただ自分のことを話しただけだ。それを日本かどこかの映画会社が勝手に修正して宣伝に使ったのが有名になったんじゃないのかな」
「あ、最後にちょっとだけすいません」といって、私はウェイドのある部分の長さを測定した。

「な、何をするんだね」
「すいません、ちょっと口を開けてください」

2.5cmだった。
私たちは別れの挨拶をかわした。ここでほんとうなら「To say Good bye, I die a little」というところなんだけど、こいつに通じるとはどうしても思えなかったので私はいわなかった。
9 ワーロック
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
ワーロック……世界的ハッカー
ブラウン……DEA捜査官
ベントン……DEA捜査官
いかに腕に自信があろうとも、何か手がかりがなければ手をつけるわけにはいかない。こんなとき、知恵の足りない人間は他人の知恵を借りようとする。だから私はカーン協会の会員を呼びだそうとした。だが、思い直した。だってあれから何年も経っている。翻訳の賞味期限は半世紀だと村上春樹はいった。もちろん、私自身に賞味期限はない。私は永久に生き残るだろう。しかし、時代の流れに完璧に逆らえる人間はこの世に存在しない。私もその例外ではなかった。
私は内ポケットからiPhone 4Sを取り出し、ボルチモアのワーロックに連絡をつけた。
「誰?」
私が親指と人差指を開く仕草をディスプレイの上で行うと、ワーロックの顔が大きくなった。
「聞かなくても分かるだろう。マーロウだ」
「またあんたか。俺は警察が大嫌いだってあれほどいったろう」
私は大きなため息をついた。
「何度間違えたら気がすむんだ。私は警察ではなくて探偵だ。た・ん・て・い!」
「おんなじようなもんなんだろ?」
私は二度目の大きなため息をついた。
「おいおい、私の商売がどうして成り立つのか、知らないのか? 何かで困ってるけど警察には持ってけないって人間が五万といるからだ。だいたい私自身、警察なんか好きじゃない。警察に捕まってブタ箱に放り込まれたことだってある。だけど私は今までに一度だって警察に降参したことはないんだ。だって、警察にとっちめられて降参したとわかったら、そんな奴にいったい誰が仕事を頼みに来ると思う?」
少し沈黙の時間があった。キーボードを叩く音だけが鳴り続けていた。
「……わかったよ。要件は?」
ふうっ、と私はさっきまでとは違う種類の息を口から吐いた。
「二つある。まずひとつは、DEAにブラウンとベントンという捜査官がいるかどうか確認してほしい。もうひとつ。彼らが追っているテリー・レノックスという人物の消息を確認してほしい。私の古い友人にも同じ名前のがいたんだが、彼とは60年以上会っていないし、表向きには死んだことになってる。誰かに成りすましてまだ生きてるかもしれんが……」
「DEAの方は今すぐにでも分かっちゃうよ。ちょっとだけ待ってくれ……」
またキーボードの音が鳴り響く。そのあいだワーロックの顔は少しも下を向くことがなかった。
「分かったぞ」
「そんな人物は存在しない、だろ?」
「いや、残念ながら珍しい名字じゃないからな。あんたの管轄内にはジョン・ブラウンというのとロバート・ベントンというのがいる」
「そうか……」
「いたらまずかったかい? だが落ち込むのはまだ早いぜ。この二人の通信記録を調べてみる。それとテリー・レノックスの件についてはもう少しだけ時間をくれ。最近はDHSのガードがかたいんでね」
「ありがとう。恩にきるよ」
10 ブラウン、ベントン、ワーロック
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
スミルノフ教授……ブログ主
ワーロック……世界的ハッカー
ブラウン……DEA捜査官
ベントン……DEA捜査官
こんな不思議な家は見たことがなかった。灰色の大きな四角い箱がいくつも互い違いに積み上げられていて、しかもその片方は滝の上にまでせり出していた。いったいどうやってバランスを保っているのか皆目見当がつかなかった。
スミルノフ教授の邸宅へ続く長く曲がりくねったドライブを降りようとしたとき、私の目の前に黒いセダンが停まった。いやな予感がした。車から出てきたのはブラウンとベントンだった。
「マーロウ、だったな?」ブラウンはこないだと同じようにバッジをちらっと見せた。私はかまわず歩き出して邸宅へ向かった。ブラウンは私の進路を妨げるようにからだを入れてきた。
「テリー・レノックスという男を知っているだろう?」
「そんな名前は聞いたことがない」私は一瞬の動揺を悟らねぬよう間髪を入れずに返した。
「うそをつけ。最後に会ったのはいつだ。場所はどこだ」とブラウンは声を荒らげた。背の高いベントンは後ろで薄ら笑いをうかべながら赤いボールペンでメモをとるふりをしていた。
「ここで私がいったいどういうことなんだ、というと、君が、質問をしているのはわれわれだ、というわけだね」
「で? おとなしく返事をするかね?」
「その男が何かをしたのかい?」
ベントンが口を出した。「返事だけをすればいい。われわれは職務に従って捜査をしているだけだ。余計なことを知らせる必要はない」偉そうな声だった。
「よさないか、若造」と私はベントンにいった。私は疲れていたし、イライラしていたかもしれないが、とにかくこの男は虫が好かなかった。「そんなセリフは少年係がいうことだ。子どもだってきかないだろうけどね」
「俺は司法試験をとおってんだ。つまらんこというと、ためにならんぜ」とベントンは私の挑発にのってきた。
「じゃあ、私が質問に答えなければならないなんて、どの法律の何条に書いてあるんだ?」私はベントンに鼻柱をつきつけた。
「捜査に協力しなければならないのは市民の義務だ」彼は私を殴りたいのをじっとこらえながらいった。
「そうさ」と私はいった。「だが法律上はそんな義務はない。そんな質問に答える義務はないんだ。君たちが協力協力といってるのは、すべて君たちの脅迫の結果に過ぎない」
「おい、俺が学校出だからといって勝手なことはいわせておかないぞ」
とうとうベントンが私を殴った。みごとなレフトが命中した。私は殴り倒されて地面に頭を強打した。ベントンは立ったままで冷ややかな薄笑いを浮かべていた。彼がパンチを繰りだしたとき、上着の裾の間から拳銃が見えた。はじめはシルエットからコルトだと思ったが、よく見るとグリップの中央に星のマークがあった。
私はその記憶だけを鮮明に残してから気を失った。
*
次に意識が戻ったとき、私は落下している最中だった。
下からの風圧がすごかったので、落ちていることが分かった。
帽子はすでにどこかに飛んでしまったようだ。
髪とコートの裾がばたばたと揺れている。
海岸の稜線が見えた。
それが見えるほど高いところにいる、ということだ。
町の白い協会。
広い芝生のある豪邸。
これは夢なのだろうか。
それとも、さっきまでが夢で、これが現実なのだろうか。
着地とともに終わる人生。
いったい私は誰だったのだろう。
「ワーロックだ」
そのとき、どこかからワーロックの声が聞こえた。変だな、どうして聞こえるのだろう。
「マーロウ、ワーロックだ。聞こえるか」
私はまだ落下していた。
ワーロックの声は、すごい風の音に混じっていた。
「ああ、ワーロック。どこにいるんだ?」
とにかく声を出してみた。
だけど風にかき消されて自分の声がよく聞こえなかった。
私は落下しながらも、躰をねじらせて自分の上下左右を確認してみた。
だが、ワーロックの姿はどこにも見えなかった。
「どこにいるかだって? 自分の家に決まってるだろ。いったいどうしたっていうんだ」
ワーロックの声は、どうやら私の頭の中に直接届いているようだった。
そうとしか考えられなかった。
「ブラウンとベントンのPCとスマートフォンの通信記録を調べたぞ」と、ワーロックはいった。「彼らのデータ通信相手の約半分はロシアで、そのほとんどがFSBだ」
「ほんとうか、ワーロック」
私は彼らが持っていた星マークの拳銃を思い出した。
あれはマカロフだったのだ。
「次にテリー・レノックスの件だが、あんたの旧友は表向きにはたしかに死んだことになってる。しかしメキシコで生き延びたという証言もある。それ以上は全くお手上げだ。ほんとにあんたはうまくやったもんだよ。ただ、ちょっと気になる情報もある」
「気になる? 何が気になるって?」と私は叫んだ。
「同姓同名の、もっと最近の入国者でちょっと気になる奴がいるんだ」
「やっぱりな。で、そいつは何者だ?」
「ロシアからの亡命者だ。そいつがアメリカ人のふりをしてテリー・レノックスと名乗っていたんだ。今は日本人になりすましているという情報があった」
ロシアからの亡命者? 日本人?
私はスミルノフ教授のことを思い出し、次にテツのこと考えた。どういうわけか、テツの部屋にあった椅子に座った姿の彼の肖像画が思い出された。
「ついでにスミルノフ教授のことだが……」
「スミルノフ教授のことだって?」と私は叫んだ。
「ついでだったんだ。まあ聞いてくれ。スミルノフ教授という人物の実在は極めて疑わしいが、Whois情報を調べたらな、使用されていたのは日本人の名前だったんだ。その名前というのがなんと……」
ワーロックの話を最後まで聞き終わる前に、地面がものすごい速度で私に近づいてきた。
時間切れだった。
タイム・アウト。
もう、終わる。
もう、終わるんだ。
私はぎゅっと目を閉じた。
11 スミルノフ教授
登場人物
フィリップ・マーロウ……私立探偵
スミルノフ教授……ブログ主
テツ(呉哲範)……医師
「だいじょうぶかね?」
遠くから声が聞こえた。
「起きなさい」
私の躰が揺さぶられた。
目を開けると私の顔は濡れた芝生の上にあった。あたりは闇に包まれている。 年老いた男が寝そべった私を見下ろしている。身なりのきちんとした男だ。髪は残り少なくなり、口のまわりは白髪混じりの髭でおおわれていた。べっ甲のフレームの立派な眼鏡をかけている。それは私が以前、ウェブサイトで見た顔だった。
「スミルノフ教授?」
「ようこそ、マーロウ君」
「すいません。気を失って夢を見ていたようです」
「夢じゃないんだ、マーロウ君。君はこっち側の世界に来たんじゃよ」
「こっち側の世界? こっち側って何です?」
「ウェブサイトの世界。だからもう安心じゃ。何でもありじゃよ」
教授は手を顔にあげて眼鏡をかけ直した。
さらに髭をゆっくりと整えて、左の頬の皮膚を分かりやすく露出させた。
左頬には見覚えのある二つの穴があった。
私は定規を当ててその二つの穴の距離を測定した。

2.5cmだった。
「テツ!」と私は叫んだ。「テツの正体は教授、あなただったのか」
そして呉哲範ことスミルノフ教授はこういった。
「ミソスープには早すぎるかな?」
*
私とテツは<シナノ>で再会を祝い、ミソスープをのんでいた。
いや、もはや相手はテツではなかった。スミルノフ教授である。だが、私にとっては日本人のテツこと呉哲範だ。しかし、日本人に化ける前はテリー・レノックスと名乗ったこの男の正体はまさしくスミルノフ教授なのだ。
「教授、顔を元に戻したのですか?」
「いや、戻したわけではない。君がわしの世界に来たのだ」
「教授の世界?」
「そう、ウェッブサイトの世界。この姿はここでしかできんのだ。」
教授は傷痕のある左頬に手をやりながら語り始めた。「わしは夢の鎮痛剤を開発したあと、それを持ってアメリカに亡命した。テリー・レノックスという偽名はそのときに使っていたもののひとつだ。そのうちアメリカとの関係も気まずくなってしまい、日本に流れ、日本人のしがない町医者・呉哲範としてうまいことやってたんだ。ところが呉哲範のところにまでFSBの影がちらつくようになってしまった。それで今度はまた別の人間に変身しようとして逃亡したんじゃ」
「今ごろは南米のどこかじゃなかったんですか、教授?」
「そうじゃ。君がこっちへ来なけりゃ今ごろはサルバドールだがフェルナンドだか、そんなかんじの名前を名乗っとったはずじゃ」
「ところで、あなたがウェイドに会ったとき、何が起きたんですか? そのときまであなたはまだブログをウェイドに書かせ続けるつもりだったはずだ」
「彼はバウムクーヘンをわしの分まで食べやがったんだ。わしは頭にきたんで、オシオキとして連載を取り上げた。でも一回だけのつもりだったんじゃよ。まだまだ二十回ぐらいは、あいつに書かせようと思っていたんだ、そんときはね」
「ウェイドがあなたの顔を噛んだんですね? 左頬の二つの穴はそのときにできた傷だ」
「そのとおりじゃ。彼はわしの気持ちを理解できなかったんじゃろう。きっとただの嫌がらせだと思ったんだね。突然牙を剥いてわしの顔に噛みつきおった。顔に噛み付くなんて初めてじゃった」
「それで突然、ウェイドの連載を打ち切ったんですか」
「ああ。あいつの顔を思い浮かべるだけでも嫌になった。ただそれだけのことなんじゃ。人間なんてな、なんだかんだいったって、ただの感情に基づいて行動してるだけなんじゃ。理屈なんかすべて後づけのものだからね」
「そうか、教授……というかテツがフラフラしていたのは、噛まれた傷の痛みを止めるためにあの薬を使ったからだったんだ」
「予想以上に痛かったからな。少々使い過ぎだったかもしれん。おかげでもう使いきってしまった」
教授は緑茶を熱そうにすすって一息いれた。どうやら教授は猫舌らしかった。
「ようするに、犬に噛まれて気分を害したから突然やる気が失せてやめたって話だ。それだけの話に二万字も費やしますかね。普通じゃない。でもこれでだいたい物語は終わりですね」
「いや、君にもうひとつ解決してほしい謎が残っておる」
「まだ何かあるんですか?」と私は訊いた。
「椅子に座った呉哲範の肖像画を覚えているかね? それから呉哲範は何度か椅子をくれと言ったはずだ」
「そうでしたかね」
「椅子に座った呉哲範、椅子をくれと言った呉哲範、椅子呉哲範……。なにか気づかないかね? イスクレテツノリ、だよ」
「いえ、何も。というか、私はさっきまで空中旅行をしてたんですよ。疲れてるんです。あまり面倒なことは考えたくない」
「じゃあわしが正解をいってしまおう。イスクレテツノリは、テリイ・レノックスのアナグラムになっているんじゃ。重大なヒントを与えたつもりだったのじゃが……」
はあ、という長いため息が私の口から漏れた。
「教授、悪いけどそれは僕の仕事じゃない。ジャンルが違います」
「そうか。それはすまなかった」
「ところでどうして私を使ったんです?」食後にようやくありつけたギムレットを傾けながら私はいった。
「わしがミステリィにはまったのは高校生の頃じゃった。クリスティ、クィーン、ヴァン・ダインなど古典的な推理小説はあらかた読み干したね。ちょうどポール・マッカートニーがウィングスをひきいて全米をツアーしてた頃だ。だからUSAライブを聴くと今でも推理小説が読みたくなる。その頃、雑誌の読者投票で好きな探偵ベストテンなんて企画をやると、一位は必ずあんただった。それも二位以下に圧倒的な大差をつけてね」
「どうしてだろう。別に難しい謎を解いているわけじゃないのに」
「いわゆる古典的な推理小説を読んでしまうと、次の選択のひとつは、サスペンスだった。たとえばアイリッシュの幻の女
とか、レヴィンの死の接吻
とかだね。そしてもうひとつの選択がハードボイルドだったというわけさ。だけど、圧倒的大差で一位になるようなあんたの魅力に象徴されるハードボイルドの良さというものが、高校生の身分ではよく分からなかったんだね。わしもちょっと若すぎたんじゃ。だが偶然、こないだ三十何年ぶりかでね、あんたの出てくる小説を読んだんだ。そしたら、とても遅ればせながらだけど、妙に感動したんだ。こんなに面白かったっけな?とね。それで、あんたに会ってみたくなったんじゃ」
「なるほど。で、どうですか? 実際に会ってみた感想は」
「正直に言って申し訳ないが、もっとかっこいいと思ってた」
「これが現実なんですよ、教授」
「それから、もっとかっこいいアクアスキュータムのコートを着ているかと思ってた」
「それは映画の見すぎじゃないかな。たしかに私はあなたの会いたかったフィリップ・マーロウじゃないかもしれない。世間にはフィリップ・マーロウが掃いて捨てるほどいるんですから。過去に存在したフィリップ・マーロウも合わせると、それはもう数えきれないほどだ。その多くはハンフリー・ボガードやケーリー・グラントみたいな顔をしてるでしょう。でも顔色のすぐれないフィリップ・マーロウもいれば、ゴージャスなフィリップ・マーロウもいるんです。中には宝田明や松田優作みたいな日本人の顔をしたフィリップ・マーロウだっているかもしれない。いろんなフィリップ・マーロウがいる。それはもう自由なんですよ」
「そのことついて異論はない。まあとにかく、会えて嬉しかったよ。そしてこうして会うことはもう二度とないだろう。いささか長すぎたし、さすがにもう言うこともなくなった」
教授は立ち上がった。私も立ち上がった。彼がしなやかな手をさしだした。私はその手を握った。
「さよなら、マーロウ君」
「さよなら、テツ、いや、スミルノフ教授。友だちになれて嬉しかった、わずかの間だったけどね」
教授は向こうをむき、出ていった。私はドアがしまるのをじっと見ていた。やがて足音が遠ざかり聞こえなくなった。それでも私は耳を傾けていた。何のためだったろう? 彼が引き返してくることを望んだのだろうか。だけど彼は戻ってこなかった。それが私が彼を見た最後の姿だった。
エピローグ
おやおや、ここまで完読してくれたのは、どうやら私の予想を少し下回って、全国で2名ほどのようである。どうもありがとう、2名の読者諸君! 君と君だ。心から感謝している。もしよかったら感謝状を私から直接贈りたいので、住所と名前を教えてくれたまえ。
さて、プロローグでは「私は誰だろう」という問いを提示した。覚えているだろうか。私はフィリップ・マーロウ、とここに書いても、別段不都合はないように思える。もちろん、私は○○○です、というのが社会的には正解なのだが、今ここで、その名前自体にどれだけの意味があろう。
もしも私がここに、「フィリップ・マーロウの大活躍のおかげで、私はまたこうして連載に復帰することができた」と加えたならば、私はコトラで本名がロジャー・ウェイドって設定、というのが最もはまりが良い。だからとりあえずそういうことにしておくかな。
だけど、私が誰かって、そんなに重要なことだろうか。
ほんとうのことをいうと、私は私が誰だか分からない。
だけど、毎日をわりと楽しく生きている。
私が誰かなんて生きていく上の何の問題でもない。今のところ。
では、また近いうちにお目にかかるとしよう。さようなら。

Comments
てっきり断筆宣言かと思いましたよ。
よく、コトラ氏の犬歯と犬歯の幅を計測して何もなく済みましたね。実は、その時に頬をかまれたのですか?
俺はちょっと苦手です。
でも、バウムクーヘンはすきです。
凌霄花の花が咲く時期が恋しいですね。
途中混乱しながら、、、でもマーロウの活躍が素敵ですた。
取り敢えず味噌汁飲んで寝ます。
>berettaM92Fさん アナグラム好きです。小説の登場人物の名前は、まずアナグラムを考えます。「儒教のミス、降る」とか、いつも考えてます。
>さかいらいんさん 凌霄花!! お詳しい方に読んでいただけて気恥ずかしいです。
>幸せさん 申し訳ないです。自分でも読み返す気が起きないのに。
今回の先生の作は素晴らしい大作ですね。凄いです。これからも楽しみにしています。