私が小中学生の頃、国語の教師はよく新聞の社説や天声人語のようなコラムを読むことをすすめた。子ども心に、これが今の大人の最高レベルの文章なのだと思い込んでいた。ところが大人になった今、特に最近は、机上の道徳に基づいた上面だけの文面にしか思えなくなった。いや、むしろこれらの著者に同情する。彼らは人間の喜怒哀楽や複雑な面白さをわざと押し殺し、陳腐な倫理観にしたがって書かなければならないのだ。そういうルールにしたがって苦しみながら書かねばならないのだ。そう考えて、著者たちの苦悶の表情を想像したりさえする。苦しみながら書き終えた彼らは社を後にし、愚連た私生活に戻っているのだという妄想を抱く。そうすることで、やっと彼らにシンパシーを感じることができる。
これは私が新約聖書を読むときの感覚に似ている(私の聖書の読み方は信者の方々から見れば甚だけしからぬものだということは自覚している)。福音書に描かれるイエスの謎めいた人間性には胸をときめかされる。ところがパウロの手紙の部分に入ると、とたんに読むのがつらくなってしまう。
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 (ガラテヤ5:19-21)
もちろん、パウロは単に陳腐な道徳なぞを説いたのではなく、陳腐で一般的な道徳だからこそ、それが自分の幸いと一致するのが真の幸いなのだ、という解釈は分からないでもない。また、お前は分かっていない、パウロは逆に厳しくて意味のない「律法」から人々を解放したのだというおしかりもあろう。だが、「信仰」とはほど遠い、単なる福音書イエスのミーハーなファンとしては、使徒言行録はまだしも、パウロの手紙に入るとちょっとつらい、というのが正直なところなのだ。
しかし、パウロの布教がキリスト教を今日の世界的宗教に育て上げたことは疑いようのない事実である。彼のドグマ化の流れが世界的なものに押し上げられたのは、それだけ彼の崇高な「信仰」の力が突出したものであったのだろう(勉強不足の私にはこれぐらいのことしか書けないが…)。陳腐な道徳や教科書的な正論だけで人を動かすことができるなどとは、私には到底思えないからである。あるいは私も直接パウロに会うことができたならば、彼の何かに心を動かされるのだろうか。











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