はてブがたくさんついた記事を読むことはほとんどないんだけど、最近これを偶然読んだ。そしてフーコーを連想したのだけれど、そのあとこの記事の500個以上のブクマを見たら、フーコーに言及してるものがちらほら、中井久夫について語るものまでいて、マーカーのみなさんお前らって何者なの? 研究者とか一流大学の学生とか院生なのかなって思った。だって少なくとも私の教え子たちにフーコーを知っている人がいたとは思えない。フーコーは医学史に関わる著作もあるから、医学生の間で有名であってもよさそうなものだが、私は教員時代に学生とフーコーの話をした記憶は一度も無い。さすがにフランクルだったら有名かもしれない。でもどうかな。それでもローリーは知っているだろうか?
そもそも医学部の学生や研修医は、まあ医者もそうかもしれないし、あるいは私が教えてた大学の連中が特別そうだったのかもしれないが、実際の臨床に役立たない知識だと判断すると、とたんに驚くほど無関心になる。そのことを象徴するような出来事を、たまたまHDを整理していたら出てきたこの写真で思い出した。

ラジオメーター社の血液ガス分析装置である。同社はこの分野で世界的なシェアを占めている。私はわざわざ「COPENHAGEN」という文字を強調してこの写真を撮った。だってね、みなさん、おかしいと思いませんか? 血液ガスの測定機器に限って、アメリカでもない、ドイツでもない、日本でもない、コペンハーゲンという都市がある小国の会社が大きなシェアを占めているんだよ。
さあ、コペンハーゲンってどこの国の都市だっけ?
そう、デンマークだよね。賢明な読者諸君はすかさず答えたはずだ。そしてもう興味津々になってるよね。ねえ、どうしてアメリカでもなくドイツでもなく日本でもなく、血液ガス分析に限ってデンマークが出てくるの? もうあなたは早く答えを教えろってイライラしているはずだ。
それはどうしてかというとね、デンマークがポール・アストラップ博士という血液ガス分析のパイオニアを生んだ国だからさ。あのね、1950年代の初頭、デンマークではポリオが大流行し、何百人ものこどもたちが呼吸不全で亡くなっていたんだ。そこでアストラップ先生は……。以下はめんどくさいのでコレでも読んでね。
血液ガス分析のことをアストラップって呼ぶ医者もいるよね。それぐらいすごい先生なんだよ。でも私はそんな医者、「メスよ輝け」の当麻先生以外に見たことないぞー。そんなのそうとう古い医者だと思うぞー。
まあそれはおいといて、いかがだろうか。この測定装置の「COPENHAGEN」という文字は、血液ガス分析の話のとっかかりとしてはとても良い素材なんじゃなかろうか。みなさん、引き込まれたでしょ。だから私はそういうふうに話し始めて、それからアストラップ先生がアメリカの学者たちと勇敢に戦った話とか付け加えてやろうと思い、さっそく研修医たちを集めた。私の素晴らしい講義が始まるぞー。私は質問した。
さあ、コペンハーゲンってどこの国の都市だっけ?
「えっと、どこだったかな」
「聞いたことはあるんだけどな」
「ハーゲンっていうぐらいだからドイツなんじゃないですか?」
「あー、東欧の方じゃなかったっけ?」
「オーストリアとかじゃない?」
いかん。私はこの大学の連中をすっかりナメていたようだ。ローリーにいたっては、知らないってこと自体に悦に入り、自慢気な笑顔を浮かべている。
ローリーが研修医に毛のはえた程度だったこの頃、麻酔科医の間ではプレコンディショニングという言葉がちょっとブームだった。プレコンディショニングというのは、心臓が短時間の虚血にさらされると、それで虚血に強くなって心筋梗塞になりにくくなるって現象のことだ。そして、あたかも短時間の虚血にさらされたかのように虚血に強くなることをプレコンディショニング効果と呼ぶ。当時、麻酔薬のいくつかがこのプレコンディショニング効果を持つのではないかといわれており、それで学会や学術雑誌などで話題になってたのだ。もちろん、そんなことはまだ教科書とかには書いてなかった。
ちょうど私がプレコンディショニングについて議論しているところに、研修医に毛のはえた程度のローリーが入ってきた。研修医に毛がはえたぐらいの頃というと、もうそろそろ教科書一辺倒の勉強は卒業して、学術雑誌なんかも読み始め、旬の知識を仕入れたりし始める頃である。私はローリーがそういう一人前への道を歩み始めているのかどうか、ちょっと試してみたくなった。そこで聞いてみたのである。
ローリー、プレコンディショニングって知ってる?
ローリーの答えはこうだった。

「それって新しいバンドですか?」
ローリーは満足気な笑顔で答えた。このときのローリーの心の中はおそらくこうだ。俺はスミルノフ先生がロック好きなのを知っている、上司の趣味を知り、上司の気を引く会話がよどみなくできる俺、俺って素晴らしい部下だ。
私はそういうローリーの健気な心境が理解できたので、怒ることはせずに話をそのまま合わせることにした。
「そうそう、今どきちょっとアレかなって思うんだけど、グランジの影響受けちゃっててさ、プレコンディショニングなんていかにもグランジっぽいよね。ボーカルにもディストーションかけちゃってさ、俺の心臓強いぜーっとかって歌うんだよ。そういえば、こないだローカル放送にも出てたぞ。石川テレビをご覧のみなさんコンニチハ!プレコンディショニングです!ってね。」
ローリーは私の妄想癖のスイッチを入れる天才だった。
あれからもう何年も経つ。ひとつ分かったことは、ローリーがいなければブログ記事ひとつ書くのにもたいへんな苦労がいるってことだ。その後ローリーは専門医試験にも合格し、プレコンディショニングの研究に打ち込むほどまでに成長した。だけど、コペンハーゲンがどこの国にあるのかは、結局教えるのを忘れてしまった。COP15も開催されたことだし、さすがにもう分かっているだろうと思いたい。
私はローリーとの再開を楽しみにしている。そして最初の挨拶はこうに決まってる。コペンハーゲンってどこの国の都市だっけ?